今はもう見かけなくなったが「めし」と大きな文字で書かれた看板が、どーんと出ている食堂があった。
今でも「ご飯を食べに行く」と言うように、食事とは「米のご飯」を指していたのだが、ご飯を目当てに行く人は少ない。つまり、何らかの料理を食べに行くことに変わってしまった。
めし屋で先ず注文するのは、ご飯である。関西では大中小から選択する。実際には、これだけを注文し、これだけを食べて帰ってもいいわけだ。沢庵とお茶ぐらいはついてくる。
この種の基本的な道(笑)を実行しにくいのが今の世の中だ。
うどん屋で、「うどんください」と、注文しても、「なにうどんですか?」と、素直に、すうどんを出してくれない世の中になってしまった。
特にチェーン店や、おしゃれな店では、このベースが疎かにされている。しかし、昔からあるような(何の特徴もない普通の)食堂では「うどん」と言えば、こなれたオバサンが、それ以上聞き返さないで素直に「すうどん」を出してくれる。
メニューがバラエティーで、ユニークなものが並んでいるのは、悪くはないが、ベースが見なくなった店は最悪だ。
僕は応用問題が見えない人間である。少し捻られると、何も見えない。何も聞こえない。
そういう僕もご飯を食べるために、仕事をしているわけではない。支出の中で占める「めし代」はほんの僅かだ。
ご飯のことを、「まま」と呼ぶが、ままを食べるためではなく「我がまま」を食べる時代になったようだ。