川崎フォトエッセイ  その951  ありふれた美       HOME

 古典美というものがある。典型的な美しさだ。古典は時代を超えても生きながらえる美である。当然それとは異なる新しい美を求める気持ちも出てくる。

 既に誰かが発見した美を、そのままコピーしたのでは新しさは見いだせないないため、否定する人もいる。

 もう既に他の人がやってしまったことを、なぞるような真似は出来ないと考えることもある。対象よりも、人の視線を気にしているのだろうか。

 美的な体験が、その人に起これば、それはその人にとっては新しい出来事だ。その体験を多くの人が共有し、結局誰でもやっていることになったとしても、問題はないだろう。

 僕らは純粋に美に接しているわけではない。様々な思惑やポジションとの絡みの上で、美を見ている。

 対象の美が凄いのではなく、それを見出した自分が凄いと考えると、美は自分自身と言うことになる。

 そして誰でも見いだせる美をつまらなく思うのは、自分がつまらないことになる。